2007年07月29日

【Watch】平成20〜21年度、全市が小中一貫校に

平成18年第12回教育委員会定例会会議録(2007年7月13日更新)
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/a014/p040/t04000041.html
「開催年月日 平成18年12月1日(金)」のもの。半年以上経ってようやく公開(-_-)

この会議の平成19年度予算関連の部分で、三鷹市内の公立小・中学校の小中一貫教育校への移行スケージュールが触れられている。
○寺木委員  10ページの3目の14、小・中一貫教育校関係費ですが、小・中一貫が、今後、どういう感じで進んでいくのか。今後進める予定がある学校はどのぐらいあるのか、そこのあたりをお願いいたします。

○里吉指導室長  今後の小・中一貫教育校の開園の方向につきましては、平成20年度に、今現在、開園ということで予定をして準備を進めているところでございまして、第一中学校区の第一中学校、第四小学校、第六小学校、南浦小学校の4校、それから第六中学校区、第六中学校、第一小学校、北野小学校、第七中学校区、第七中学校、羽沢小学校、大沢台小学校、以上の10校が平成20年度の開園に向けて準備を進めております。
 そのほかの中学校区につきましては、平成21年度開園ということで、準備を鋭意進めているところでございます。
わかりにくいのだけど、要は、下記の日程でそれぞれ「○○学園」となっていく、ということですね。

平成20年度
・第一中学校区(一中、四小、六小、南浦小)
・第六中学校区(六中、一小、北野小)
・第七中学校区(七中、大沢台小、羽沢小)

平成21年度
・第三中学校区(三中、五小、高山小)
・第四中学校区(四中、三小、七小)
・第五中学校区(五中、中原小、東台小)

平成20年度ってのは、もう来年です。ううむ、確かに「にしみたか学園」では新しいカリキュラムが作られて実践に移されているのですが、もう軌道に乗ったことになってんのかな(コミュニティ・スクールとしては、まだ模索中だけど)。
頻繁に研究授業をやって練り込んでいる最中なんじゃないか、といような気がしているのだけど、他校での実践に役立てられるようなところまで一般化できているのかしらん。
posted by ダディ三鷹 at 23:59| 東京 🌁| Comment(11) | TrackBack(0) | 三鷹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
9月2日付の「広報みたか」でも、一中・六中・七中学区の各学区で平成20年度四月開園に向けて取り組み始めたことが載っていますね。にしみたか学園の児童・生徒の声もでています。

http://www.city.mitaka.tokyo.jp/koho/p1.htm#1

でも、こういうものはいつもそうですが、必ずプラスの評価のみが表に出されるもの。マイナスの評価の声に耳を傾けて、同じ道を通らないようにしてほしいものです。
マイナスの声があるのかと、言われるかも知れませんが、我が子とその友だちなどに聞くと、子どもたちからはずいぶんと沢山の先生が去っていってしまったことへの正直な気持ちを聞くことがありますよ。その理由については、なかなか見えにくいわけですが、よくよく分析してほしいものです。現場が何を感じているのか。ここを見落とすと、教育の質が確保できなくなるのです。それから、研究授業等の多さにカリキュラムへの影響があることや、小学校での教科担任制や少人数制のもとで、先生にしっかりと見てもらえなかったり、授業が分かりづらくなったりしたという感想も聞きます。まあ、半分くらいは親たちの声を反映しているかもしれませんが、アンケートなどでは拾いきれない声は沢山あるのではないでしょうか。
小・中一貫をやるしかないなら、既にすすめられている「にしみたか」のよいところも悪いところもしっかりと汲み取って、そのやり方をよくよく考えて、よりよいものに出来たら良いですよね。
しかし、この取組であるかぎり不可避なこともあるのでしょう。そのときにどういう判断をなしうるのか。でも、もう引き返すことは起こりえないのでしょから・・ねえ。この道を行くしかない。ならば、出来るかぎり子どもたちへよいものを与えられるように考えていきたいものです。

(「この道をいくしかない」などという意識が問題で、本当はいつでも止められるし、戻ることもできると言いたい。しかし、そうならそうで、感覚的なことばではなく、実証が必要。いずれにしても、こんな短期の中では、実際的ではありません。ダディの言われるとおりで、「にしみたか」はまだまだ何も見えていないのではないか。ならばなんで、急ぐのでしょうね。)

「ゆとり教育」からのゆり戻しが起こる時代。教育の現場は混乱と忙しさだけに追われている感じがします。教師にこそ子どもたちの変化に対応していけるゆとりをもってほしいですよね。よりより教育の実現を考えるなら、あわてずにじっくりとすすめることが必要ですよね。




Posted by saigyo at 2007年09月05日 11:51
saigyoさん、いつもありがとうございます。
この「広報みたか」、週末に配達されましたね。
読んだときに同じようなことを考えました。

6月かな、検証委員会の報告書が公開され、ダイジェスト版(A4で4ページ)が配布されました。そこでは課題として言及されていた部分があったのです(ご存知でしょうけれども、のちほど別記事で列挙します)。
しかし、見出しは「3.特徴的な検証結果−今後の取り組みに向けて」というものでした。
これって……。

「まず成果を示す」という方針は理解できなくもありません。関わっている方々はボランティアですから、モチベーションを下げるようなことはしたくないという思惑もあるでしょう。
広報では限られたスペースなので十分な説明ができないということもあるに違いありません(ぼくは、いつも長過ぎる原稿を削るのが仕事、という一面がありますので他人事ではありません。三鷹市の広報に関わっているわけではありませんけれども(^^;;)。

そう考えていても、手放しな褒めっぷりというのは「自画自賛?」「お手盛り?」などという気持ちがわきます。

先生方の負担増については、検証報告にも書かれています。また、サポート作業に関わっている人たちは、おそらく誰もが「一面では自分たち(協力者)が負担を増やしているのではないか、いや、そうだ」と一度は考えてしまったことがあるはずです。

ご指摘のような「カリキュラムへの影響」「教科担任制や少人数指導の影響」といったこともあるのかもしれません(もうちょっと具体的なことがわからないと、なんとも言えませんが)。

二中のある先生は保護者会で、小中一貫になってから生徒が幼稚になったと漏らしました。
これは、わが家の子どもを見ていると、ちょっと思い当たることがあります。
小中一貫前に進学した長子には「先輩に目をつけられるかもしれないから、服装や態度なども気をつけなければ」という緊張がありました。それに比べて、今年進学した(ということは一貫後のわけですが)の第二子は明らかにリラックスしていると感じます。
無用な緊張をしなくてすむというメリットもあるけれども、必要な緊張を失うというデメリットもあり得るということを、身をもって観察中といったところです。
もっとも、個体差とか、この学年に特徴的な傾向という可能性もあります。ですから、そこも頭に入れて何年か見て行く必要がありますが。

「危惧するだけ、否定するだけでは始まらない」のですが、新しいことに取り組むときは、思いがけない副作用などがないかを、目を皿のようにして見て行く必要があるということも、忘れてはならないですね。
Posted by ダディ三鷹 at 2007年09月06日 00:22
ありがとうございます。

新中学一年生がやや「幼稚」なのかどうかはわかりません。けれども、似たような話は聞きますね。新しい「緩やかな段差」(?)の影響があるとかないとか。

これは、なかなか難しいですよね。正直な思いで言えば、大人になっていく過程ではそれなりにいくつかの段差をしっかりと超えていかなければ、大人にならないのだと思っています。中学生へ段差は、ある意味で半分だけ大人になっていく思春期の入り口でのイニシエーション。この段差をしっかり超えることで、大人への階段を上るのです。

いつまでたっても子どもみたいな大人が生まれてきているのは、今日の社会の中で大人と子どもの区別が失われてきたということも大きな要因だと考えています。大人が子ども化している面と早くから子どもを大人と同じような世界に組み入れている。昔は繁華街を子どもが歩いている姿は何か危なげに映ったものです。しかし、そういうことは当たり前の姿になってしまった。翻ってみると、大人が持ち歩いているものは子どもと同じ漫画とゲーム。PCはまだ高価なものだし、大人の目があって子ども世界に入っていないと思われるかもしれないけれども、実際には携帯電話がそれとほぼ同じ役割を果たし、急速に子どもを匿名性の高いITバーチャル世界に引きずり込んでいます。消費文化があらゆる年齢層を対象にしながら商品を開発してくるということもあるでしょうね。子どもも大人も押しなべて一つの世界で生きるようになってきているのです。しかも、本当の生身の体験を素通りさせながら。ここから見えてくるのは人間関係の希薄さとモラルの低下。それがアイデンティティーを失わせ、自分のも他人のも、そのからだといのちを粗末にするような様々な問題に発展しています。

話が大きくなってしまいました。ごめんなさい。まあ、ですから、小中一貫が悪いということではないのですが、正しい段差を経験させられない世の中になってきているなあと思っています。逆に言えば、小・中一貫の中でこそ、いま希薄になっている様々なつながりを再構築することができるのかもしれない。プラスの側面をしっかりと見ながら、必要な段差を示すことも大事なのではないかと思うのです。そして、それを自分のものとさせていく。そのために必要なプログラムは沢山考えられるとおもいます。

中学生になると急に意識される先輩・後輩関係。あんなものは民主的な世の中でふさわしくないと思われるかも知れませんが、意外と大事だと思いますよ、ある時期に経験するべきことでしょう。

未来を背負う子どもたちをどういう大人へと育てていくのか。大事な課題です。大人も一緒になって現代を考えながら何を大事にしていくのか、もう一度取り戻していくのか、そして、何を断念するべきなのかと考えながら取り組むことが出来れば良いですねえ。子どもの問題は、実は私たち大人自身の問題でもあるのですよね。
Posted by saigyo at 2007年09月06日 14:15
毎度時間が経って間が抜けてしまいました、すいません。

ぼくもイニシエーション(通貨儀礼)の重要性を考えると、むやみにハードルを下げるべきではないと考えています。ハードルを越えられない子どもたちへの支援は必要ですが、ハードルそのものを下げるという処方箋はナンセンスだとさえ思います。
また、無茶な言い草かもしれませんが社会とは「理不尽」で「中途半端」なものです。ダメなオトナで満ちあふれています。ですから理不尽なものごとは減らすべきではあるのですが、ゼロには決してならないでしょう。であれば、理不尽なものに出会わないように育てるというのも、脆弱な温室育ちを育ててしまうようで不満です(会社員時代に、70年代生まれの社員たちにそうした脆弱さを感じたことを思い出します)。

実は、学校の先生の多くは学校しか知らないのではないかということが、高校生の頃から気になっていることではあります。学校が好きか、少なくとも学校というものに違和感や疑問を持たずに大人になった人ばかりが教師なのだとすると、いったいどれほどの教師がが「学校に行くのがいやな子ども」だとか、「集団行動に馴染めない子ども」を感覚的に理解できるのだろうかと思ってしまうのです。
長じるに連れて、中には学校がイヤだったからこそそういう子どもたちのために教師になった人もいるとか、勉強が苦手だった人も教師になっていると知りましたが、やはり少数派でしょう。
それでも乱暴に言ってしまえば、いまの教員のほとんどは戦後の、文部省>文科省のフラフラとして腰の定まらない教育観で育って来たわけです(戦前の教育がよかったというつもりもまったくありません。識字率の高さなど、日本の公教育の成果を認めないつもりもありません。しかし、しょせん公教育が担えるものなど多寡が知れている。「人間に必要なこと」を学校が教えようなんて片腹痛いといったところでしょうか)。
であれば、放っておいても多少の理不尽は体験できるでしょう。大雑把に言って、どんな人間集団でも、およそ「上出来な人3分の1、ふつうの人3分の1、ヒドイ人3分の1」ってなもんですしね。

そんなこんなで、学校というものに過大な期待はしなくなったのですが、子どもや教員を振り回すばかりの教育行政に口出しをしないというのも業腹。幸い、口出しも手出しもできるご時世なので、少しでも手助けをできるところはしようか、というのが昨今の心境です。

なんかとりとめなくなっちゃいました(汗
Posted by ダディ三鷹 at 2007年09月12日 02:41
ところで。

>しかも、本当の生身の体験を素通りさせながら。ここから見えてくるのは人間関係の希薄さとモラルの低下。それがアイデンティティーを失わせ、自分のも他人のも、そのからだといのちを粗末にするような様々な問題に発展しています。

なんかね、人間関係にリアリティを感じていないのではないかみたいな話は多いのですが、実際にお子さんと向き合ってみて、そう感じますか?
ぼくは、そんなことないんじゃないかと思うんです。いや自分の体験の話でしかないので、一般化できるのかは心もとないのですが。

ぼくらの世代も、いろんなことを全部実際に体験できたわけではありません。小説とか映画とかドラマとかマンガといった、疑似体験から学んだものは多かったはずです。いまの子どもと体験の面で違うところって、世界が衛生的になったからむき出しの自然にはあまり遭わなくなったってことぐらいかな(いや、ぼくはもともとインドア志向なので、今の子どもとそんなに違わないような気もしますが)。
今の子どもたちには、ゲームが加わりました。こいつは反応があって結果が変わって来るだけに、シミュレーションとしてはそれまでのメディアよりも上出来です。本当はそれまでのメディアよりも、よりリアルな疑似体験ができるはずです。
テレビだって、居間に一台、子供部屋にも一台、なんて珍しくないですよね。疑似体験を積む機会は増えています。

またコミュニケーションツールは豊かになりました。かつて、ぼくは家に一台しかない電話で友人と長電話をすることは困難でした。でも、次に話ができるのは、明日の放課後か、と思うと「ここで会ったが百年め」みたいな気持ちが働いたんでしょうかね。
そのうちに親子電話が普及し、いまは一人一台の携帯電話です。電話だけじゃなくてメールもあります。そうしたものが自由に使える分、コミュニケーション濃度はものスゴく高くなっていてもおかしくないはずなんです。
ところが、「いくらでも使えるコミュニケーションツール」を手にした彼らは、ごく表面的な話題のやりとりしかしなくなりました。いくらでも話ができるってことは、いま込み入った話をしなくても、いつでもできるってことなのかもしれません。

でも、すごく感じるのは「相手の内面に立ち入らないようにしている」ということです。
彼らは臆病になり、過敏になっているように見えます。まるで、むき出しの肌を触られるかのように、常にピリピリして、主張することを避け、ぶつかり合うことを避けています。
これは本当に「リアルな体験が少ないから」なんでしょうか? どうも、そうではないような気がしています。事前に学び過ぎて臆病になっているのではないでしょうか。経験がないといえば、失敗の経験がないのかもしれません。周りの誰かしら常に一生懸命にハードルをどけていった結果、転んで立ち直るという経験が少ない、そういうことはあるのかもしれない、というのがぼくの今のところの感想です。
Posted by ダディ三鷹 at 2007年09月12日 02:59
そうですね。
おっしゃる通りだと思います。何をもってリアルな体験が少なくなっているというのか。あるいは、その原因は何かということについては丁寧に見ていく必要を感じています。

>「いくらでも使えるコミュニケーションツール」を手にした彼らは、ごく表面的な話題のやりとりしかしなくなりました。いくらでも話ができるってことは、いま込み入った話をしなくても、いつでもできるってことなのかもしれません。
でも、すごく感じるのは「相手の内面に立ち入らないようにしている」ということです。
彼らは臆病になり、過敏になっているように見えます。まるで、むき出しの肌を触られるかのように、常にピリピリして、主張することを避け、ぶつかり合うことを避けています。<


そう言われるようなことが、ある意味で「リアルな体験」を持っていないということではないかとも思うんです。もちろん、それが今の彼らのリアリティであるわけですけれども。だからこそ、そこに人間関係の希薄さのようなものを感じるのです。

たとえば現在の高校生、大学生くらいの人間関係の不思議な現象を実際に目にも耳にもすることは決して少なくありません。食堂で向かい合って座っていて、お互いは携帯を通じて会話しているのです。それは周りに気づかれないように、無言の会話を必要としているというからではないのです。携帯の画面を見ていることで、自分の気持ちが素直に表せるとか、表現ができるということになっているようです。これは特殊な例かもしれません。しかし、実際に行われた調査によれば、自分が直接には知らない、つまり面識のない人と携帯やPCという新しいコミュニケーション・ツールを使って会話することに違和感がないという子どもたちは急速に増えています。年代別の調査結果を持っていますが、30代、40代と年齢層が上がれば、それだけそうしたコミュニケーションには抵抗感が強いのです。でも、今の子どもたちは、平気になっているのです。

IT機器は、確かに新しいコミュニケーションではあります。しかし、そこに本当の生身の人間の姿が見えない恐ろしさがあると思うのです。
私たちは今の子供たちの世界が分かっているのだろうかと改めて感じています。
Posted by saigyo at 2007年09月13日 00:13
今の子供たち、携帯は通話には使いませんね。ほとんどがメールです。メールのやり取りはごく短い言葉でやり取りをします。そして、自分が都合が悪ければ、それはすぐに読まないこともできる。自分の都合のいい時に読めばいいし、いやなものは削除してしまう。これを使う高校生の中ではどれだけ友だちがいるかというのは、このアドレス帳にどれだけの人を持っているかということだそうですね。でも、実際にはあったこともない人たちがたくさん含まれていたりする。リセットと言って、メルアドを変更して友だちを整理するなんてこともするそうです。これは、いったいどういう友だち関係なのでしょう。こんなことは、自分の子どもにはみられないかもしれないけれども、こちらではそういう意識はなくとも、不特定多数の周囲の同年齢の子どもたちは、そういう世界を生き始めていることを知っておく必要があると思うのです。
「プロフ」という携帯版の自分紹介のHPのようなものを使っている中学生は二中でも結構いると聞いています。その「プロフ」を介して、いろいろな人とのつながりを作ることができるようです。しかし、その関係は匿名性が高く、本当にその人がどういう人物であるかわからないのです。もちろん、自分の情報について「プロフ」に表すのもハンドルネームでしょうし、本人を特定できるようにしないのは一応常識となっているようではあります。
そうしたツールが日常化しているという事実と、この時代の子どもたちの人間関係の希薄さとが無関係ではないかという仮説のほうが、難しいのではないかと思うのです。

もちろん、そうした新しいツールを自分の意識のもとにおいて、使いこなす力をつける子どももいます。ごく普通の(というか昔からのといったらいいのか)人間づきあい、友だちづきあいをもって育っていれば、まだまだ、感覚的にごく普通の理解を持っていると思います。そして、大部分の子どもたちはちょうどよい割合で、両方を経験しているのですから、表面的に見れば、まあ、そんなに深刻ではないようにもみえます。

けれども、そうした新しいツールを持って生きるようになった世界が子どもたちにどんな影響があるのかは、まだまだ未知数です。そしてその未知なる世界がすでに子どもたちを包み込み始めていることは確かです。


Posted by saigyo at 2007年09月13日 00:18
うちの子どもたちはいわゆるテレビゲームなどを買い与えずに育てましたし、幸いにもそうした遊びとは違った外遊びなどで遊べる友だちに恵まれてきました。
けれども、同じようにゲームを持たせなかった親御さんに、こんな様子をお聞きしました。
自分の家にはテレビゲームはないのだけれど、あるときゲーム持参で遊びに来る子どもたちがいたそうです。そうすると、ゲームをする子どもはそれにかかりきりになってしまう。そうすると、もはや会話が生まれません。その子どもはゲームの中の出来事を説明したり、それへの反応を共有したりすることはあっても、直に友だちが何を考えているかとか感じているかということには心が向かないようなのです。だから、結構独り占め状態が起こっていても、気がつかない。何人かの子どもたちは、確かに自分の家にはゲームもあって、その面白さも知っているらしく、しばらく付き合っていたそうですが、もともとゲームのないうちに遊びに来ている子どもたちですから、なにか違うことがしたくなってくる。ところが、そのゲームに夢中の子は他の友だちもみんなゲームを楽しんでいるものと錯覚している。実際は他の友だちはしばらく付き合っていても、飽きてきますから、他の部屋か外に遊びに行ってしまったそうです。
何度も、その子のことを誘って外に行こうとしたのですけれど、その子には通じなかったらしいのです。
そこからなのです。すると、その「ゲーム坊や」は自分がそこに一人でいることにふと気づいてどうしようと思うようですが、それでも、あまり気にせずに、ひとりでゲームに没頭していたそうです。でも、しばらくするとやっぱり不安を覚えたのか、ゲームをひとまずはなれたそうですが、じゃあ、ほかの友だちとの遊びに入ったかというとそうではなくてなんとなくつまらなそうにして、ゲームをしようと誘っていたそうです。そして、とうとう、ひとりで戻ってきてもくもくとしばらくゲームをしてひとりで帰って行ったというのです。

ゲームという世界の中で、友だちと対戦はできても、本当に友だちと人間関係を作っていくことが難しくなっているのでしょうか。いやそれほどではないけれども、何かそこに微妙な子ども同士のふれあいにずれがあるような気がします。
コミュニケーションは自分とは違う他者を発見しつつ、その相手との出会い、ぶつかり、ともに生きていく道を探る生きたやりとりです。その人の声、顔の表情、姿勢や雰囲気など全体がそのコミュニケーションを成り立たせます。ITが間に入ることは、実はそうした経験を失っていくことでもありえます。いったん失うと、もはやそうした経験をどのように持っていくことができるのかがわからないのかもしれません。まあ、実際にはそんなに夢中になっている時の一過性の風邪みたいなものだとは思うのですが。けれど、そうしたツールが取り囲む世界の中に生きるとき、子どもたちは違った考え方や違ったやり方に本当にはぶつからない。何となく群れてはいるけれども、そうでないと不安だからそこにいるようだけれども、自分を伝えることも、相手を認めることもできなくなりつつある。いっしょになって喧嘩したり、言い合いをして、それでも友達として認め合って、折り合いをつけていくことができない。「気遣い」は持つのです。自分を守るために。だから、何とか空気は読もうとする。そのことには長けている。けれども、本当に人とぶつかっていくことができないでいるのではないか。想像しています。
自分は自分というような感じの子どもたちは増えているように思います。しかし、その自分とはいったい何者なのか、そうしたコミュニケーションが失われた時には、自分がわからないものになってしまうのではないかと思うのです。
Posted by saigyo at 2007年09月13日 01:00
二年くらい前、朝日新聞で「12歳」というコラム連載がありました。あれを読んだとき、おどろくような12歳の子どもたちの世界を垣間見た気がしました。私たちが子どもであった時代を想像していては追いつかないのです。

>事前に学び過ぎて臆病になっているのではないでしょうか。経験がないといえば、失敗の経験がないのかもしれません。

そうかもしれません。しかし、それは単純に頭でいろいろなことを学びすぎているという意味でしょうか。学びすぎとは、おっしゃられる「疑似体験」の豊かさという意味かしら。
疑似体験は、実際の体験の延長として、実際の体験をもとにした想像力の中で豊かに経験されていくものだと思います。すでに何らかの体験をもって、そこに培われたものを土台にしながら、ツールが作り出し、提供してくれる豊かさとして受け取ることができれば、このツールがあることに問題は少ないと思います。むしろ、そこに繰り広げられる世界を本当に享受することができるのです。そして、大部分の大人は、そういう形でしかこのツールと出あわなかったわけですよね。

しかし、今の子どもたちは違います。このツールがある社会の中に生まれ育っている。たとえ自分が持っていなくても、そういうものが存在する社会、そういうものを通して作られてきた人間関係が網の目のように張り巡らされた世界のなかに投げ込まれているのです。そこに大人が見極めることが困難な事情があります。彼らは、いったいどういう世界の中に生きているのでしょう。そこをよくよく見ていかないとならないのだろうと考えています。
例えば、ゲームをもっていなければ、どうやってゲームの話ばかりする友だち仲間とつながれるか、一生懸命に考えます。ほかに友だちが得られたなら、それは恵まれたことです。ゲームを持たせないということに親はどれほど悩んできたことでしょうか。すでに、そこにはゲームをもつ者と持たない者との壁が、しかも決して低くない壁が作られます。それは、その世代が大人になっても何かしら保持しなければならない壁なのです。なぜなら同じ経験としてのゲームの話題を共有できないからです。それは小さな覚悟を持たせるのです。
同じように、今の中学生は自分で携帯を持っていなければ、持っていない自分をどこかで引け目に感じつつ、自分が加わることの出来なネットワークへの「気遣い」を持たずに生きていくことはできないのです。そして、あらかじめ「はじかれている自分」をどういう形で、ほかの友たちとつながるものとしてその関係を作り出せるのかということに神経を使います。(これはとくに女のお子さんに多いようです。男の子はまだまだ持っていないということも普通と言えるようです。でも、次第に変わっていくでしょうね。)


>失敗の経験がない。

その通りかもしれません。確かに、親も含めて今の社会は過保護とも思えるほどに、いろいろな危険を察知して、そうした経験から子どもたちを遠ざけている。とも言えますね。
しかし、逆に親が全く無関心になっているからか、あるいは携帯でどこにいても連絡がつくという安心感からか、小学生が友だち同士で渋谷に遊びに行くということが起こりうる。だから、失敗したときには大失敗になる可能性と隣り合わせです。

親であるわたしたちは、本当にいまの子どもたちの世界が見えていないのではないかと思う。
けれども、その中で必死になって生きている子どもたちは結構したたかに自分らしさを作り出して乗り越えるべきものをいつの間にか乗り越えているのかもしれない。身につけるべきものを身につけて、上手にやりくりしているようでもあります。

だからこそ、見えにくい。見えにくいところに、私たち大人はしっかりと目を向けていかなければいけない。


そういいながら、ふと思ってしまう。けれど、そういう大人がいるから、また逆に子どもの世界に異常なほどに大人のまなざしが向けられて、子どもの独自の世界が失われることにもなるのでは・・

ジレンマです。袋小路?

それでも、私たちもまた こういう自分を抱えながら、何かを考え、行動して、子どもたちへ「明日」を手渡したいのです。

(また長くなりました。いつもいつもすみません。)
Posted by saigyo at 2007年09月13日 01:20
saigyoさん、いつもありがとうございます。
まずお断りしておくと、実際に起きていること、今の子どもたちのありよう、置かれている状況についてはsaigyoさんの把握に異論はありません。ぼくが違和感をもつのは「どこに原因を見出そうとするか」だけと言っていいと思います。
それも「IT環境のためではない」というのではなく、「IT環境のためかどうかはわからない」といった程度のものです。

というのは、IT機器のなかった当時から、ぼくは今の子どもたちと似たようなところがあったり、生育環境のためもあっていろいろな面で「あらかじめはじかれている」子どもだったりしたためです。彼らとぼくが、すっかり違う環境に生きているのかと考えると、どうしても「これこれの環境やありかたはぼくと共通する部分があるけれども、結果は同じようではない。それなのに一般化できるだろうか」と留保したい事柄が増えてしまうのですね。
とはいえ、似ているということは同じということとは別ですし、周り中が一様に変化している中で、ある部分を取り出して似ているなんて言ってもあまり意味はないのかもしれないとも思います。

それはともかく「人間関係が希薄」「IT機器を介した接触は平気(あるいは、その方がより望ましい)と考えている」といった特徴が気がかりというか不安材料であることには違いありません。

もっとも自分の足下は、それどころじゃありません。うちの子なんぞは、ちょっと恥ずかしくてこんなところには書けないようなバカをしようとしていました。事前に察知して事なきを得ましたが、オレの子がITがらみでそこまでのバカをやるのかと思うと、ホントに涙も出ません。いろんな意味で脱力しまくる出来事でした。
大所高所のメタな話をしてる場合じゃないです、ほんと(T^T)
話がズレますが、このところ、脱力な出来事やカリカリくる出来事が重なりまして、自分の無力もひしひしと感じているところです。
Posted by ダディ三鷹 at 2007年09月14日 02:46
ダディ三鷹さん、

ありがとうございます。
ダディのお考え、よくわかります。
私も「IT環境」だけが悪いということを思っているわけではありません。子どもを取り囲むさまざまな環境の中の一つだと思っています。ただ、この環境の変化は私たちにとってはあまりにおおきな変化ですね。こうして、それこそ匿名でHP上でやり取りしていることそのものが数年前までは想像すらできなかったことです。その大きな変化の中で、なにが起きているのかということを、やはり注意深く見ていく必要があるというだけのことです。特に、子どもにとっての環境としては本当に思っている以上になにか大きなものだという私自身の危機感が先にあるのだと思います。
実際のところ、我が家でもTVゲームは持たせなかったとはいえ、コンピューターは早くからやらせてきました。それだけに、過剰にいろいろなことを思うのかもしれませんね。現代を生きる私たちは、生まれてくる新しい環境の中で生活しているので、よほどのことでない限り、そこから抜け出ることはできないし、それを望むものでありません。
そうであればこそ、私たちが知らないうちに身を浸していくこの世界がどういうものなのかと、注意を向けていきたいということだけでありました。

常日頃考えていることを、まくし立てたようになってしまいましたこと、深くお詫びいたします。

saigyo
Posted by saigyo at 2007年09月14日 08:19

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